ポストコロニアル研究プロジェクト 研究会
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開催概要
日時 | 2010年11月10日(水) 18:00~20:00 |
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場所 | 国際会議場4階共同研究室7 |
主催 | 西洋演劇研究コース ポストコロニアル演劇研究 |
概要 | 【発表者】長門洋平(グローバルCOE研究生) 【題目】溝口健二『残菊物語』(1939)の音響分析―日本映画における西洋的コードとその否定 【概要】 『残菊物語』は、溝口健二の代表作であるのみならず、戦前日本映画を代表する一本として 高い評価を受けている作品である。しかしその反面、『残菊物語』に代表されるいわゆる 「芸道もの」映画に、家父長制や封建社会に対する批判意識の欠落、とりわけ女性の 「自己犠牲」を美化する国策的イデオロギーを見出し、時局迎合的なプロパガンダ映画の 一種であるとして批判する声も存在する。本発表では、聴覚的側面から『残菊物語』を読み 直すことによって、如何に同作が当時の戦意高揚映画と趣を異にしているかという点に ついての考察を試みるものである。 グリフィス以降慣習化されていく、近接ショットやカットバックにより映画の説話機能を効率的に 働かせるためのシステムをひとまず「西洋的」コードと呼ぶならば、溝口はそこから自覚的に 離反していった「日本的」な作家として知られている。『残菊物語』は、溝口固有の文体として つとに名高いロングショットとロングテイクが最も極端な形態をとった作品であり、その結果、 メロドラマの体裁を保ちながらも一貫してヒロイン=「お徳」の顔がよく見えないという極めて 異様な様相を呈するフィルムとなっている。同作のナラティヴは人物の顔(表情)ではなく、 声=台詞をはじめとする物語世界内の音響によって現前する。特定の音響を反復させる ことによるドラマ演出、そして音の不在=沈黙が如何に画面の情動と結びついているかという 点等に注目しながら、『残菊物語』における音響の重要性を明らかにしていきたい。 とりわけ同作のクライマックスとなる、船乗込みとお徳の臨終がクロスカッティングの手法で 演出される終盤のシークェンスの音響分析に重きを置く。臨終間際のお徳の台詞の不自然さ、 そして物語世界内で響いている囃子の音の不自然さに注意しながら、この有名なラスト・ シークェンスを辿りなおしてみたい。映画の終局において、本当にヒロインは死んでいるのだろうか。 これまで自明とされていた「お徳の死」を再検討することによって、同作が如何にプロパガンダの 枠組みから逸脱しているかという点を論じてみたい。 <発表者プロフィール> 長門洋平(ながと・ようへい) 横浜国立大学大学院修士課程卒。 現在、総合研究大学院大学文化科学研究科国際日本研究専攻博士後期課程在籍。 早稲田大学演劇博物館グローバルCOE研究生。 映画の音楽・音響に関する研究をおこなっている。溝口健二の作品を主要な分析対象とし、 主に同時代(1930年前後~50年代)の日本映画の音響と映像/ナラティヴとの関係について 考察を進めている。 主要論文に、 「溝口健二『赤線地帯』(1956)の音響デザイン―黛敏郎の客観主義的映画音楽について―」 (演劇博物館グローバルCOE紀要『演劇映像学2009(第1集)』2010年)、 「沈黙するモダンガール―溝口健二『浪華悲歌』の音響設計と伴奏音楽の不在」 (黒沢清・四方田犬彦・吉見俊哉・李鳳宇編『日本映画は生きている 第2巻 映画史を読み直す』岩波書店、2010年)など。 |